top of page
検索
執筆者の写真福井宝永教会 日本キリスト教会

主日礼拝・福井宝永教会


2020年1月26日(日) 午前10時30分~


説教:「 信仰による義 」 中村静郎牧師​


聖書: ローマの信徒への手紙3章21~31節


讃美歌21

14(たたえよ、王なるわれらの神を)

378(栄光は主にあれ)

160(深き悩みより)





 





新約聖書(新共同訳)より

ローマ信徒への手紙3章21~31節


ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。


すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。


そこには何の差別もありません。


人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。


神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。


それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。


このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。


では、人の誇りはどこにあるのか。


それは取り除かれました。


どんな法則によってか。行いの法則によるのか。


そうではない。信仰の法則によってです。


なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。


それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。


そうです。異邦人の神でもあります。実に、神は唯一だからです。


この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。


それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。


むしろ、律法を確立するのです。


閲覧数:5回0件のコメント

最新記事

すべて表示

Comments


bottom of page