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主日礼拝・福井宝永教会

  • 執筆者の写真: 福井宝永教会 日本キリスト教会
    福井宝永教会 日本キリスト教会
  • 2020年2月20日
  • 読了時間: 2分

2020年2月23日(日) 午前10時30分~


説教:「アダムとキリスト」 中村静郎牧師​


聖書:ローマの信徒への手紙5章12~21節


讃美歌21

18(心を高くあげよ!)

76(今こそ歌いて)

292(勝利をたたえて)










 

新約聖書(新共同訳)より

ローマの信徒への手紙5章12~21節


このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。


すべての人が罪を犯したからです。


律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。


しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。


しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。


一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。


この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。


裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。


一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。


そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。


一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。


律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。


しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。


こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。


 
 
 

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