top of page
検索
執筆者の写真福井宝永教会 日本キリスト教会

主日礼拝・福井宝永教会


2020年3月22日(日) 午前10時30分~

説教:「内在する罪の問題」 中村静郎牧師​


聖書:ローマの信徒への手紙7章7~25節


讃美歌21

22(深き悩みより)

298(ああ主は誰がため) 300(十字架のもとに)










 

新約聖書(新共同訳)より

ローマの信徒への手紙7章7~25節


では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。


決してそうではない。


しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。


たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。


ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。


律法がなければ罪は死んでいるのです。


わたしは、かつては律法とかかわりなく生きていました。


しかし、掟が登場したとき、罪が生き返って、わたしは死にました。


そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました。


罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして、掟によってわたしを殺してしまったのです。


こういうわけで、律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです。


それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。


決してそうではない。


実は、罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。


このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした。


わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。


わたしは、自分のしていることが分かりません。


自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。


もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。


そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。


わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。


わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。


もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。


それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。


「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、 わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。


わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。


死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。


わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。


このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。


閲覧数:9回0件のコメント

最新記事

すべて表示

Comments


bottom of page