top of page
検索
執筆者の写真福井宝永教会 日本キリスト教会

主日礼拝・福井宝永教会


2020年6月14日(日)

午前10時30分~


説教:「イスラエルの選び

中村静郎牧師​


聖書ローマ信徒への手紙9章1~18節


讃美歌21

83・6・475・481・29
















 

新約聖書(新共同訳)より

ローマ信徒への手紙9章1~18節


わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。


わたしの良心も聖霊によって証ししていることですが、 わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。


わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。


彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。


先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。


キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン。


ところで、神の言葉は決して効力を失ったわけではありません。


イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということにはならず、 また、アブラハムの子孫だからといって、皆がその子供ということにはならない。


かえって、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる。」


すなわち、肉による子供が神の子供なのではなく、約束に従って生まれる子供が、子孫と見なされるのです。


約束の言葉は、「来年の今ごろに、わたしは来る。そして、サラには男の子が生まれる」というものでした。


それだけではなく、リベカが、一人の人、つまりわたしたちの父イサクによって身ごもった場合にも、同じことが言えます。


その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、「兄は弟に仕えるであろう」とリベカに告げられました。


それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。


「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。


では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。

決してそうではない。


神はモーセに、


「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」

と言っておられます。


従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。


聖書にはファラオについて、「わたしがあなたを立てたのは、あなたによってわたしの力を現し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである」と書いてあります。


このように、神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。



閲覧数:17回0件のコメント

最新記事

すべて表示

Comments


bottom of page