2019年6月9日(日)午前10時30分~
説教:「 神の安息に与かる 」 中村静郎牧師
聖書: ヘブライ人への手紙4章1~13節
讃美歌21
(クリックすると宝永教会のパイプオルガンで演奏された奏楽音声が流れます。事前練習にお役立てください。)
5(わたしたちは神の民)
357(力に満ちたる)
新約聖書(新共同訳)より
ヘブライ人への手紙4章1~13節
だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう。
というのは、わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。
けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。
その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです。
信じたわたしたちは、この安息にあずかることができるのです。
「わたしは怒って誓ったように、 『彼らを決してわたしの安息に あずからせはしない』」と言われたとおりです。
もっとも、神の業は天地創造の時以来、既に出来上がっていたのです。
なぜなら、ある個所で七日目のことについて、「神は七日目にすべての業を終えて休まれた」と言われているからです。
そして、この個所でも改めて、「彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない」と言われています。
そこで、この安息にあずかるはずの人々がまだ残っていることになり、また、先に福音を告げ知らされた人々が、不従順のためにあずからなかったのですから、再び、神はある日を「今日」と決めて、かなりの時がたった後、既に引用したとおり、
「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、 心をかたくなにしてはならない」とダビデを通して語られたのです。
もしヨシュアが彼らに安息を与えたとするのなら、神は後になって他の日について語られることはなかったでしょう。
それで、安息日の休みが神の民に残されているのです。
なぜなら、神の安息にあずかった者は、神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだからです。
だから、わたしたちはこの安息にあずかるように努力しようではありませんか。
さもないと、同じ不従順の例に倣って堕落する者が出るかもしれません。
というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。
更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。
この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。
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