2018年7月22日(日)午前10時30分~
説教:「キリストを信じるとは」
中村静郎牧師
聖書:フィリピの信徒への手紙3章1~11節 讃美歌21
(クリックすると宝永教会のパイプオルガンで演奏された奏楽音声が流れます。事前練習にお役立てください。)
5(わたしたちは神の民)
479(喜びは主のうちに)
297(栄えの主イェスの)
新約聖書(新共同訳)より
フィリピの信徒への手紙3章1~11節
では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい。
同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです。
あの犬どもに注意しなさい。
よこしまな働き手たちに気をつけなさい。
切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。
彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。
わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。
とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。
だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。
わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。
律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。
しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。
そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。
キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。
キリストを得、 キリストの内にいる者と認められるためです。
わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。
わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。
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