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執筆者の写真福井宝永教会 日本キリスト教会

主日礼拝・福井宝永教会


2019年7月14日(日)午前10時30分~

説教:「 メルキゼデクの祭司職 」 中村静郎牧師​


聖書: ヘブライ人への手紙7章1~10節

讃美歌21

(クリックすると宝永教会のパイプオルガンで演奏された奏楽音声が流れます。事前練習にお役立てください。)

455(神は私の強い味方)






 

新約聖書(新共同訳)より

ヘブライ人への手紙7章1~10節

このメルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司でしたが、王たちを滅ぼして戻って来たアブラハムを出迎え、そして祝福しました。


アブラハムは、メルキゼデクにすべてのものの十分の一を分け与えました。


メルキゼデクという名の意味は、まず「義の王」、次に「サレムの王」、つまり「平和の王」です。


彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司です。


この人がどんなに偉大であったかを考えてみなさい。


族長であるアブラハムさえ、最上の戦利品の中から十分の一を献げたのです。


ところで、レビの子らの中で祭司の職を受ける者は、同じアブラハムの子孫であるにもかかわらず、彼らの兄弟である民から十分の一を取るように、律法によって命じられています。


それなのに、レビ族の血統以外の者が、アブラハムから十分の一を受け取って、約束を受けている者を祝福したのです。


さて、下の者が上の者から祝福を受けるのは、当然なことです。


更に、一方では、死ぬはずの人間が十分の一を受けているのですが、他方では、生きている者と証しされている者が、それを受けているのです。


そこで、言ってみれば、十分の一を受けるはずのレビですら、アブラハムを通して十分の一を納めたことになります。


なぜなら、メルキゼデクがアブラハムを出迎えたとき、レビはまだこの父の腰の中にいたからです。


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