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執筆者の写真福井宝永教会 日本キリスト教会

主日礼拝・福井宝永教会


2019年8月25日(日)午前10時30分~

説教:「 罪を贖う唯一のいけにえⅡ 」 中村静郎牧師​


聖書: ヘブライ人への手紙10章1~18節

讃美歌21

(クリックすると宝永教会のパイプオルガンで演奏された奏楽音声が流れます。事前練習にお役立てください。)

289(みどりもふかき)

292(勝利をたたえて)


 

新約聖書(新共同訳)より

ヘブライ人への手紙10章1~18節

いったい、律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません。


従って、律法は年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。


もしできたとするなら、礼拝する者たちは一度清められた者として、もはや罪の自覚がなくなるはずですから、いけにえを献げることは中止されたはずではありませんか。


ところが実際は、これらのいけにえによって年ごとに罪の記憶がよみがえって来るのです。


雄牛や雄山羊の血は、罪を取り除くことができないからです。


それで、キリストは世に来られたときに、次のように言われたのです。


「あなたは、いけにえや献げ物を望まず、 むしろ、わたしのために 体を備えてくださいました。


あなたは、焼き尽くす献げ物や 罪を贖うためのいけにえを好まれませんでした。


そこで、わたしは言いました。


『御覧ください。わたしは来ました。

聖書の巻物にわたしについて書いてあるとおり、 神よ、御心を行うために。』」


ここで、まず、「あなたはいけにえ、献げ物、焼き尽くす献げ物、罪を贖うためのいけにえ、つまり律法に従って献げられるものを望みもせず、好まれもしなかった」と言われ、 次いで、「御覧ください。わたしは来ました。御心を行うために」と言われています。


第二のものを立てるために、最初のものを廃止されるのです。


この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです。


すべての祭司は、毎日礼拝を献げるために立ち、決して罪を除くことのできない同じいけにえを、繰り返して献げます。


しかしキリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き、その後は、敵どもが御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです。


なぜなら、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです。


聖霊もまた、わたしたちに次のように証ししておられます。


「『それらの日の後、わたしが 彼らと結ぶ契約はこれである』と、 主は言われる。


『わたしの律法を彼らの心に置き、 彼らの思いにそれを書きつけよう。

もはや彼らの罪と不法を思い出しはしない。』」


罪と不法の赦しがある以上、罪を贖うための供え物は、もはや必要ではありません。


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